田上の歴史
以下の内容は 「田上区史」
 より抜粋、年代順に並べたものです、
成り行き等の詳細はそちらを見て下さい。
今度田舎に帰られた時、書庫から引っぱり出されてみてはいかがでしょうか

西 暦 時 代日本全土的事象田上では
BC2万年旧石器時代アジア大陸と日本が陸続きだった頃ナウマンゾウ、オオツノシカを求めて人類がこの地を訪れている。(石器類が発掘されていることより)
BC1400年縄文時代土器、竪穴式住居、貝塚 石器
土器の使用(日向、寺の前、宮の前で石器類発掘)
BC300年弥生時代竪穴式住居,稲作が始まる 竪穴式住居
での生活(日向、寺の前、宮の前で発掘)
250年古墳時代前方後円墳の築造、方墳・円墳・八角墳
は後期から飛鳥時代のもの 
集石土壙墓、甕、壺、 高坏
の使用
600年飛鳥時代遣隋使を中国へ送る日向の山尾根に3基の 古墳
が作られる
710年奈良時代   軍団・駅制による牧場の設置がされる
752年奈良時代 藤原義真が 大日如来懸仏
を作る。天平寺の寺宝となる。(鑑定では室町時代の物ではないかと推測される)
770年奈良時代  良弁僧が 3尊(馬頭観世音、聖観音、勢至菩薩)
を作る。(鑑定によると、鎌倉時代の作)
794年平安時代薬子の変、 坂上田村麻呂
が大納言昇任
騎馬需要による牧場数の増設がされる
797年平安時代 田村麻呂の家来紀田上が高社山天平時(長福時の前身)及び、笠原山南岳寺(観音寺の前身)を創建
1271年鎌倉時代源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、
全国に守護を置いて、鎌倉幕府を開いた 
この頃の地名 南笠原郷田上村
1566年室町時代 高社山崩壊により社殿埋没、死者行方不明者多数
1573年安土桃山時代織田信長と豊臣秀吉が中央政権
を握っていた時代 
上木島の大龍寺の僧、崇室苗大和尚が高宮山長福時再建
1575年安土桃山時代 高社山崩壊により埋没された三尊を掘り起こす。観音堂をつくり安置した
1602年安土桃山時代 笠原神社(現在の豊国神社)中ノ宮へ再建
1632年江戸時代徳川将軍家が日本を統治していた時代村請制度(政治を村の代表に任せる)の開始
田上村最古の文書 「年貢割付状」
当時の村高内訳
1633年江戸時代 地検帳に25人の農民が記載されている。千曲川中洲(田上島)に1町4反の耕地があった。
1647年江戸時代 田上村の枝郷中小屋ができる
1647年江戸時代 この頃の主要道路「大道」(別名:越後道、谷街道)開削は明らかでないが,
信濃国絵図
には記載がある
1665年江戸時代  須賀川堰
の始まり、この堰の効果により 303石から430石へと開田が進む
1668年江戸時代 この頃の 地検帳

干ばつに苦しむ、松平遠江守(飯山藩主)が 観音寺
に祈願、雨をもたらす、以後山号改め「雨引山観音寺」となる。
1682年江戸時代  長福時
の再建(この写真は最近のもの)
1708年江戸時代 代官窪嶋作右衛門・窪島市兵衛の配下、 年貢約113両
収めている
1714年江戸時代 笠原神社 日向へ移転
1716年江戸時代 千曲川の中洲の所属争い、相手方の聞き違いにより、(鏡島と田上島)多くの 中洲
を得た
1716年江戸時代天領中野陣屋支配となり、村方3役制
(名主、組頭、百姓代)が実施される
観音講供養仏 観音像
の建立
1721年江戸時代 念仏講で建立した 石仏
が観音寺にある
1731年江戸時代 始まりは不明であるが、 「割山」
により山を分けて所有していた 山の保護管理も力を注いだ
1734年江戸時代 農民は 下層域
が増えている。千曲川の洪水の影響が大きかった様である。
1734年江戸時代 当時の田上村絵図より 景観を復元
してみた
1740年江戸時代 岩井村との 入会訴訟
、山小作農民が起こした事件
1742年江戸時代 千曲川の 水害
、洪水被害は数多く、築堤を行うも「戌の満水」で破壊される
1765年江戸時代赤子の圧殺厳禁命令飢餓に苦しみ間引き(出産直後に殺すこと)を行なった 供養
の為だろうか
1782年江戸時代天明の飢餓田上でも 飢餓に依る死亡者
が多数でた
1804年江戸時代  寺子屋
が始まる、塾者の努力であり、 寺子屋のある年代、無い年代
がある。
1828年江戸時代 須賀川堰の水が良く流れる様 水神 を祭った (山の神、水の神)

堰普請風景

1831年江戸時代天保の飢餓飢餓に苦しむ一方、俳人も生まれている、(抱月、湖水、新月)
1835年江戸時代 江湖会(ごうこえ)(幾人かの僧が 特定の寺
に集まり修行を積む会)が行われる。この時の僧38人
1847年江戸時代弘化の大地震(善光寺地震)倒壊5件 半倒壊15件 死者、けが人0
1858年江戸時代 山中誇らに不動明王像、不動滝そばに 不動明王碑
がある。山中修行者がいたと思われる
1868年江戸時代 飯山戦争(戊辰戦争)の 絵馬
、田上がどの様に戦争に関わったかは明らかでないが、官軍が田上にも出入りしていた事を表している
北辰妙見宮碑、 妙見宮社
、大国主大神、事代主神の碑が建てられる
1870年明治時代財政難のおり、中野県の成立で租税
の増収を行う。一揆騒動に発展、
中野県は10ヶ月で消えた
2戸減となっているが、騒動との関わりは明らかとなっていない
1871年明治時代戸籍法の発布/作付制限の撤廃戸数の掌握、生産、風俗にかんして、各町村に 戸長
(現在は区長)を定めた
1872年明治時代太陽暦の採用
1873年明治時代地祖改正法公布 克明学校創立

京都吉田家へ願いを出し、 豊国神社の社号をもらう
1878年明治時代下高井郡の発足この頃と1739年の村絵図を比較して大きな変化は無く、村高の増加は止まった。97戸 人口435人
1882年明治時代 明治の大火 母屋12棟 物置12棟 土蔵6棟 豊国神社本殿、拝殿 合計32棟焼失
1884年明治時代 この頃の田上村に 祭られている神々

1888年明治時代 倭村の誕生 戸数354 人口1907人
1889年明治時代 馬の農耕以外への利用、馬車へ
1891年明治時代 新道(県道414)がしゅん工される
1904年明治時代  倭尋常小学校創立
(現倭小学校の所)
1905年明治時代 倭村青年会の設立
1910年明治時代  豊国神社新築
焼失より28年後の事、この時 神明社、飯綱社、座王、熊野権現を合併させた
1915年大正時代  観音寺の仁王門
、鐘楼の屋根修理、(寄付:田上、長丘村、科野村、秋津村、上木島、往郷村)
戸数102戸 606人 養蚕農家が89.2%
1916年大正時代 大正の山林火災、田上牧ノ入り区有林6万坪を焼失した
1917年大正時代 水ノ尾用水(水源地)競売、銀行等に借り入れにより、田上所有地とした
1919年大正時代  自転車・荷車の利用
1925年大正時代 長野電鉄河東線開通
1926年大正時代 この頃よりドウロク神を祭った、子供達が家々を周り 米や銭を集めた、子供達にとって年中行事の中で最も楽しい日であった
1928年昭和時代 倭村信用組合発足した(軍事遂行用の組織であり、農民の為のものではない事により終戦時解散となる)
1929年昭和時代 観音寺講が発起、(戦前は8月9日うり観音の縁日があった)
1932年昭和時代 昭和の火災 合計3戸の焼失、その後、春と暮に夜警を徹底する様になった
1933年昭和時代 田上でのりんご栽培の始まり
奉安殿の設置
(敗戦後は土俵に変えられた)
1937年昭和時代日中戦争田上公会堂の設立、設立にあたって青年会が大きく貢献する
1940年昭和時代 当時の 荷車税

長野電鉄田上停留所しゅん工
1941年昭和時代太平洋戦争戦争に依る疎開者の受け入れ
倭尋常高等小学校から 倭国民学校
に名前を変更
1945年昭和時代終戦 復員者名

食料不足対策として開梱が急がれる
家屋の変化: 麦わら屋根
からトタン屋根へ
戦時中の資材調達の為山林無計画伐採により、 洪水
が絶えなかった
1947年昭和時代 牧野入りの開拓が始まる (開拓完了まで9年を要した)

1948年昭和時代  農協(JA)の設立

1949年昭和時代土地改良事業法制定田上地区では1961年(昭和36年)より本格的な動きとなる
公民館の設置: 公民館活動
は低迷・活発を繰り返し現在も継続している
1952年昭和時代戦後の復興による建築ブーム区有林の木材は、田上の大きな資源となる
1953年昭和時代町村合併促進法を公布、
中野町から中野市となる
下高井郡倭村田上 から 中野市田上へ
1954年昭和時代 火の見櫓
の設置
1956年昭和時代 この年より12年間 長野電鉄田上駅は有人となる
1957年昭和時代 田上駅北踏切で電車vsトラクターの事故、トラクター運転手が亡くなった、安全装置が付いたのはこの事故より17年後の事である
1959年昭和時代 田上アスパラ栽培の始まり、田上えのき茸生産組合設立
1960年昭和時代 田上 乗用車第一号

1961年昭和時代 えのき茸個人栽培の開始
1963年昭和時代  機械力を使った除雪
の開始、それまでの豪雪時の運送は人が背負って運ぶかそりを使っていた
 この頃の 倭小学校略図
正面玄関

1966年昭和時代  牧ノ入りスキー場
オープン
1967年昭和時代 田上開発観光協会設立(1986年打ち切り)
1969年昭和時代 農薬ホリドール使用禁止
1970年昭和時代 牧ノ入りに共鳴学園「清明寮」しゅん工
1975年昭和時代 この頃の 秋祭り風景
観音時花見風景
老人会演芸

1978年昭和時代 倭北部営農飲雑用水施設推進委員会の発足、川水、井戸水から水道水へ移行
1980年昭和時代 代議員会規約の制定
1982年昭和時代 倭小クロカンスキークラブ発足
1983年昭和時代 洪水 台風10号
による被害額4100万円
倭小学校新校舎
しゅん工
1984年昭和時代 昭和59年の 豪雪
 連続8日間降り続き2m10cmの積雪となった
1985年昭和時代 現在の区委員(3役+5委員)の体制が始まる
1986年昭和時代 エネルギー革新により 「炭たき業」
廃業となる
北部グランドしゅん工
1988年昭和時代 田上の 自動車推移

1993年平成時代 田上区史発行
田上の 石像物の数と種類
/ 田上史跡分布図

2005年平成時代豊田村が中野市へ加わる 
inserted by FC2 system

 トップへ戻る